
2002年製作(アメリカ)133分
監督:ジェシー・ネルソン
キャスト
ショーン・ペン(サム役)
ミシェル・ファイファー(リサ役)
ダコタ・ファニング(ルーシー役)
個人評価:★★★☆☆
映画「アイ・アム・サム」あらすじまとめ
主人公のサム(ショーン・ペン)は知的障害者で知能は7歳レベル。
スターバックスで働くサムは、ホームレスの女性との間にできた出産に立ち会う。出産したのは女の子で、サムは戸惑いながらも初めて自分の赤ん坊を抱きかかえて愛おしく見つめる。
退院の日、サムは赤ん坊を抱きかかえ、出産した女性とバスに乗ろうとしたところで、その女性は逃亡してしまった。
サムはビートルズをこよなく愛しており、娘の名前をビートルズの名曲「Lucy in the sky with diamonds」からルーシー(ダコタ・ファニング)と名付け、悪戦苦闘しながら幸せな生活を過ごす事になる。そしてサムの隣人アニー(ダイアン・ウィースト)や知的障害仲間達に支えられながらルーシーを育てていきます。

ルーシーは小学生になって物心がつき始め、自分の父親サムが他の友達の父親と違う事に悩み始める。ルーシーが父親サムの7歳レベルの知能を追い抜いてしまった頃、優しいルーシーは父親サムを励ますようになっていた。
ある日、サムは売春婦に声を掛けられて売春未遂として逮捕されたり、ルーシーの誕生日パーティーの日に、サムがルーシーの友達の背中を押したのを暴力と間違えられたり、友達にばかりされる父親サムを「本当の父親でない」と嘘を付いたりと、サムは散々な目に会う。
それを観察していたソーシャルワーカーから「サムは養育能力に問題あり」と疑われ始め、家庭裁判でルーシーは施設に預けられる事になり、親子離れ離れになってしまった。
サムは何とかルーシーを取り戻そうと、エリート弁護士のリタ(ミシェル・ファイファー)に何度も助けを求める。
弁護士リタはサムに関わらないように避けていたが、自分の社会的立場から、サムの依頼を泣く泣く無償で引き受ける事になる。
仕事と子育の両立、上手くいかない夫との微妙な関係に悩んでいたリタは、次第にサムを自分の姿に重ね合わせるようになり、サム親子を元の生活に戻そうと決意していく。
里親の家庭に育てられるようになった娘ルーシー。サムは遠くで里親と暮らすルーシーを眺めている内に、どんどん自信を無くしてしまっていく。
そんなサムの姿を見たリタは、自分も親として葛藤と劣等感を持ちながら必死で生きている事を涙ながらにサムに訴える。その心情を理解したサムは、娘ルーシーを取り戻すために再び立ち上がる事を決意する。
サムは娘ルーシーの傍にいたいという思いから、里親の近くのアパートに引っ越す事になった。それから娘ルーシーは夜中にこっそりと里親に隠れて頻繁にサムに会いに行くようになる。ルーシーが眠りにつく度にサムはルーシーを里親の元に送り返す。
ルーシーを自分の娘として育てていくつもりだった里親は、次第にサム親子の絆に心を打たれ、サム親子は一緒に暮らしていくべきであると気付く。そして裁判前日、里親はルーシーをサムに預けて(サム親子が一緒に暮らせるように)裁判で証言する事をサムに伝えた。
そして翌日の裁判で判決が下される事になるが、その続きは映画をお楽しみください。
映画「アイ・アム・サム」のキャスト

サム役のショーン・ペンは当時41歳で、年相応の渋みを持つ風貌であるが、この映画の役柄的にチャーミングな一面を見せている。ショーン・ペンは実際に障害施設で役作りを熱心に研究。サム役では、嫌味がなく、本当に自然な障害者役を演じていた。
私生活でマドンナと結婚・破局。その後も再婚破局を繰り返し、はたまた、暴力事件で逮捕されるなど、自身が波乱万丈の人生を送っていただけあって、演技に重みがあり数々の賞を何度も受賞している。
弁護士リサ役のミシェル・ファイファーは当時43歳だが年齢を感じさせない美しさである。子育てを両立するたくましいキャリアウーマン役をさっそうと演じている。女性が憧れるかっこいい女性の姿なのだろうと思われる。数々の名作で存在感を演じてきた誰もが知る名優だけあり、申し分ない安定した演技である。
娘ルーシー役のダコタ・ファニングは、くりくりした大きな瞳で優しくサムを見つめる姿は、本当に神様から授かった優しい天使のようである。大好きな父親サムを求めるルーシー役に胸が締め付けられる。
ダコタ・ファニングは現在26歳。国内外を見渡しても、天才子役が名優になる人が少ないが、まだ若いので道を踏み外さず、本物の女優としてキャリアを積んでいってほしい。
映画「アイ・アム・サム」のストーリー

同じ一人娘を持つ父親としては、直ぐに感情移入できて、娘を思う気持ちが切実に伝わった。
私事だけど、私は海外駐在が長く、一人娘と何年も離れ離れになっているので、娘の成長を近くで見られない辛さは痛いほど分かる。
(今はそうでもないけど)たまに帰省して帰国した後に娘が大泣きしたという話を聞いて、いつも強烈に胸が締め付けられていた。
そんな私事はおいといて、知能障害の父親サムを優しく愛するルーシーを、とても不憫に思ってしまった。
この映画で見せる父親サムのルーシーに対する愛の強さは半端ではないが、実際問題、愛だけでルーシーが幸せになれる訳がない、、と思えた。
この映画の役のルーシーは7歳~8歳だが、反抗期、思春期が訪れる。経済的に十分な教育が受けられず、級友からもいじめられ、自由な恋愛も難しい。
そして、しだいに父親サムに手が掛かるようになり、結婚できても面倒見る事になり、又は介護施設も高くなると、ルーシーのこの先の不幸が思いやられる。
「親子の愛さえあれば大丈夫」と訴える連中は無責任過ぎたように感じた。里親に馴染めなくても、本物の親子になれるのは時間が解決してくれるし、ルーシーにとっても絶対それが幸せなはず。映画の中で弁護士リサが「一緒に暮らせなくても定期的に会える選択肢がある」と話していたけど、それが一番良いだろうと思った。
ちょっと親子愛のきれい事が強調され過ぎて、少し冷めてしまった感じがある。
ここまで文明が進んで物欲と知性が溢れてしまった世の中で、この障害を親子愛だけで乗り越えられるのは無理かもと現実に引き戻されてしまった。
映画「アイ・アム・サム」を観て考えた事

最初は、正直、この映画が伝えたかったのが何か良く分からなかった。
それが「親子愛さえあればどんな障害でも乗り越えられる」という事だったら、浅はかすぎると思うし、「親子愛は誰にも引き裂かれない」というのも違うような気がしていた。
色々考えてみると、、、
この映画では極端なストーリーで親子愛を描かれているけど、現実社会を考えた時、、、、このような現実は数多く存在している。
例えば、、障害者として授かった子供を持つ親、死別もしくは離婚してしまった親を持つ子供、里親や施設に預けられた子供など、それぞれに不公平な運命や境遇を与えられた親や子供が存在する。
そんな理不尽な運命を不平等に与えられるものか?
そうこう考えていて思ったのは「一番大事なのは、(そういう運命、境遇が自分に与えられたという)現実を前向きに受け止めて、その運命を乗り越える目標を持って1日1日大事に精一杯生きていく事」という事。
一般的に考えると不公平だと思われる運命が自分に降りかかってしまったら、悲観するよりも、その課題をゲーム感覚でこなしていく方が幸せな人生になるのかもしれない。
私の一方的な幸せ基準で「サムとルーシーは一緒に暮らすべきではない」と思ったが幸せの姿は人それぞれ異なる。
実際、毎日幸せを感じているだけで幸せになるし、それが人生を豊かにしていくんだろうと思う。
将来の不安を抱いたまま生きてはいけない。サムとルーシーのように、誰にどう非難されても、”自分が今一番求めている瞬間”を大事に生きていく事が最も幸せになる条件であると思う。
